季時珍による本書は、季時珍が図をつけなかったため、季時珍の死後、出版にあたり販売のためには図が必要と、季時珍の子息らが大急ぎで画いたものと言われる。このため、初版である金陵本〈1596〉の図は稚拙、乱雑と酷評され、本草綱目の価値を下げる要因にもなった。後に武林銭衛本(1640)で図版のみ改訂されて面目を一新した。
本草綱目を唯一の頼りとした日本では、図の改良を試みるものが現れ、中でも岩崎灌園(1786-1842)は本草綱目全体を網羅する「本草図譜」計画したが資金不足で印刷が完成せず。大正時代(1922)になって全巻が出版された。一部に手が彩色したもの、多色刷りによるものなどがある。